月曜日のたわわ騒動と侮辱罪の厳罰化で考える表現の自由

最近、表現の自由に関する議論が複数発生している。その中のひとつは「月曜日のたわわ」騒動で、もうひとつは侮辱罪の厳罰化である。

前者に関してはいつも通りフェミがギャオってるだけなので実際あまり問題ではないのだが、後者に関しては、このブログにも関係することなので気になっている。

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「月曜日のたわわ」騒動

ことの発端は日経新聞に、一面広告で『月曜日のたわわ』の主人公であるアイちゃんの絵が掲載されたことを問題視したツイート群であった。

中身を要約すると「胸を強調した女子高生をあらゆる人が見るような媒体に載せるべきではない」とか「単純にキモい」とか「エロ漫画の広告を一般紙に載せるな」とかそういう内容である。

案の定フェミがオタクに叩かれたわけなのだが、その後に国連女性機関(UN Women)なる組織が、広告に反対する声明を出した。その内容は

今回の広告は、男性にとっての『女子高生にこうしてほしい』という見方しか反映しておらず、女子高生には『性的な魅力で男性を応援する』という人格しか与えられていません。私たちが重視してきた『3つのP』の原則は守られていないのです。

明らかに未成年の女性を男性の性的な対象として描いた漫画の広告を掲載することで、女性にこうした役割を押し付けるステレオタイプの助長につながる危険があります。

というものである。ここで3つのPとは

Presence 多様な人々が含まれているか
Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか
Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

ということらしい。

こういう言説は特に目新しいものでなく、どこでも見かける。ステレオタイプだから多様性がないだの何だの。では本当の多様性とは何か。

多様性とはなにか

例えば、ステレオタイプでない女性像を描こうとして、胸を強調しない、性的魅力のない女子高生を描いたとする。しかし、その全くステレオタイプでない女性を描いたことで、逆説的にステレオタイプな女性像が存在してしまう。つまり、ステレオタイプでない女性というのは、ステレオタイプな女性を規定しないことには描けない。

過去にCalvin Klainが、スタイルの良い白人女性の広告をやめて、太った黒人女性の広告に変えたことがあった。これはポリコレの一環であるが、太った黒人女性に変えたことで、暗にスタイルの良い白人女性こそが美しいことを暗に認めてしまっている。

日本のフェミニストの元祖とも言える田嶋陽子は次のように発言している。

スカートはフェミニズム的に抑圧のシンボルのようなものだけど、自分が自立したならスカートだろうがパンツだろうが好きなものを選んで何を着せたっていい。それこそが自由よね。
Vogue Japan

性的な魅力で男性を応援する女性が存在してもいいし、男性に一切の興味ない女性がいてもいい。胸や足を強調する女性がいてもいいし、パンツスーツを着る女性がいてもいい。それぞれの前者だけを敵視するフェミは多様性という観点からは対極にいる。実際にフェミの敵視するアニメや漫画を見れば、後者に当てはまる女性だってたくさん登場している。なんなら、恋愛ものばかりが蔓延するテレビドラマよりもよっぽどバラエティがあると言っていい。

月曜日のたわわは不適切なのか

では「月曜日のたわわ」を新聞広告に載せるのは不適切なのか。不適切と思う人が多いなら、さすがにビジネス上の観点から広告を取り下げる必要があるかもしれない。「月曜日のたわわ」広告について意見を聞いた調査がある。

Synodos

すると女性の8割は問題ないと考えており、各年代を見ても広告が問題ないと答えた人は過半数に上る他の調査においても同様の傾向になっており、結果の確度は高いと考えられる。

Synodosにも書かれているが、若い女性は二次絵に幼少期から親しんでいるため、二次絵に抵抗が少ない。よくフェミは感覚をアップデートしろと言ってくるが、フェミの方こそ感覚をアップデートした方がいい。自分が不快だと思うことが、女性全員が不快だと思ったら大間違いである。

日経新聞記者の金春喜は

『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったことが問題
HUFFPOST

と発言している。「見たくない表現に触れない権利」など存在するわけがない。これが許されるのであれば、この有名人がテレビに出ているには不快という理由で全てを排除できるし、意見広告や政治広告なども全て禁止できる。なぜフェミだけが特権を持っていると勘違いするのか甚だ理解に苦しむ。

フェミは、広告は不適切だという論点では分が悪いと見たのか、次は『月曜日のたわわ』の作品の中身までケチをつけ始めている。そして、裕木奈江は

現実社会で違法とされている事はエンタメでも基本表現を制限・禁止するべき

とまで発言。 これが認められれば、世界からミステリーやサスペンスは全て消滅。アンパンマンだって暴力で最後は解決、『ドラえもん』にもイジメ描写があるから禁止である。何より女優として活動している裕木奈江が、こんなことを言うのはどういう思考回路なのかさっぱり分からない。フィクションの世界で仕事をしてきた人間の一人ではないのか。

このようにフェミの意見は徹頭徹尾デタラメで、まともに相手をするだけ無駄である。フェミは過去の成功体験から、主張を先鋭化させてきており、これ以上の増長は許すべきではない。一理もない意見に対して屈することなく、出版社は厳格に対処してほしい。

侮辱罪の厳罰化

次に侮辱罪の厳罰化である。これと同様に開示請求の簡素化も予定されている。木村花がSNSでの誹謗中傷を苦に自殺した事件をきっかけに、ネット上での誹謗中傷や侮辱に対して厳しい対応が増している。

侮辱罪の厳罰化や開示請求の簡素化自体に関しては特別反対というわけでもない。私も炎上したときに、1回や2回同じ人から批判されるだけならなんとも思わない。ネット上で何かを表現したら批判されるのは仕方のないことだろう。ただ、何か書くたびに人格否定してくる人もいたりして、マジで訴えてやろうかと思ったこともある。

ただ、侮辱罪の厳罰化は、たわわ騒動よりも直截的に表現の自由が脅かされる危険性がある。政治家や有名人などを批判するような意見を萎縮させかねない。実際に言論の封殺を目的のように、法的措置を仄めかして批判を抑えつけようとしている芸能人もいる。政治家にとっても批判を抑えられるのは都合がいい。

仮に罪が重くなったとて、開示請求が楽になったとて、誹謗中傷や侮辱をおこなっていないのならば、裁判で勝てるのだから問題ないというわけにはいかない。一般人にとっては、訴えられるというだけでも相当なダメージを負うからだ。一方で、有名人は、お金を持っている人が多いため、仮に裁判に負けたとしても裁判費用は大したダメージにならない。したがって、批判を抑えつけるために手当たり次第に訴訟を起こす可能性がある(スラップ訴訟)。

また著名人は誹謗中傷で訴えられたところで、仕事を失うわけでもなく、こっちに関してもノーダメージである。そして、木村花の一件にしても、誹謗中傷行為を煽った山里亮太やYOUは何のお咎めも罰も受けることなく、テレビに出続けている。そして一般人が芸能人に対する裁判を起こすハードルは依然として高い。

なので、侮辱罪の厳罰化や開示請求の簡素化というのは、有名人、特に金を持っている人物が一方的に有利になる法律である。厳罰化を行うのであれば、少なくともスラップ訴訟の厳罰化を同時に実施しなければならないと思う。それがないなら、訴訟を起こしそうな有名人はとことん無視する以外に自衛の方法はない。

このブログに関してもネタはちょこちょこ思い付くのだけど、これまずいかなと思ってボツにすることがかなりある。ブログの初期の頃はどうせこんなブログ誰も見ないと思ってたので、割と好き放題書いていたような気もするが、ありがたいことにたくさんの人に見られるようになって、滅多なことは書けなくなってしまった。これからはさらに当たり障りのない内容になると思うが、そういう理由がある。

私が好きなネット上の記事に『「SHISHAMO」は「ブスかわいい」じゃない「ブス」だ』というのがある。もう見出しからして侮辱フルスロットルなのだが、中身を読んでみるとSHISHAMOの良さをしっかりと伝えている。

当時読んだときはこういう記事を書きたいと思ったものだが、私には文才がないので書けないという現実は置いておいて、真似することももはやできないだろう。多くの個人ブログは同じような悩みを持っているんじゃないかと思う。

たまにネットは実名性にすべきなどという意見があるが、個人的には全く逆で完全匿名性にすべきだと思う。リアルでどんな人物だったとしても平等に意見を交換できるのがインターネットの最も素晴らしいところだったはずなのに、いつのまにか著名人がリアルの地位をそのままネットに持ち込んで、ネット上でもヒエラルキーを形成している。それをさらに拡張しようと企んでいるのが最近の流れになるだろう。

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表現の自由
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こえのおと
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